筆子先生の映画と私

筆子先生の映画と私
~名画は福祉文化でもあり~
この度、石井筆子先生の映画が二本製作されます。そのうち、一本のドキュメンタリーな筆子先生の映画「無名の人 石井筆子の生涯」は、すでに製作を終了しつつあり、その上映を成功させる会も、長崎市や大村市では組織されています。
私は、女性として以前から筆子先生の人生には、深い感動と関心をもっていました。特に筆子先生が亡くなったとき、看病していた数人の保母さんが、「あれだけの方の最期が」という思いがこみ上げ、涙をおさえることが出来なかったと言っておられました。しかし、一方で「園長先生は、きっと満足なさっていらしたに違いない。あの方はそういう方であった。」と思って、納得したということです。(吉田久一、一番ヶ瀬康子『昭和社会事業史への証言』1982年、ドメス出版参照)私はそのことをうかがった時、筆子先生の人生を、もっと知りたいと思いました。さらに、その人生のエネルギーと根底にある思想を究めたいと思ってきました。幸いに最近は、津曲裕次教授の『石井筆子』(2001年、大空社)が刊行されており、文字ではかなりのことを学ぶことが出来ました。
しかし、映画は、本では表現出来ないものをもっています。感性にうったえ、状況を画面で現すことを通して、より立体化された中で、感動と認識を深めることが出来るのではないでしょうか。
ことに今回、製作されている二本の映画は、それぞれ特色をもっており、まさにこの二本が作られることによって、筆子先生の人生が、今まで知られていた以上の感動と認識を人々にあたえるのではないでしょうか。
最初に上映される『無名の人 石井筆子の生涯』は、宮崎信恵監督の作品ですが、監督はすでにハンセン病の詩人、塔和子さんを描いた映画『風の舞』など、女性の自立や障害者福祉を生活の視点から見つめた映画をつくっておられます。筆子先生は、すでに明治三十年に「男女の此世にあるは云うまでもなく、同等の権利を具備するものにして、男子の為に女子あるにあらざるは、猶女子の為に男子あらざるがごとし・・」(明治三十年『大日本婦人教育会雑誌』九十九号)とのべています。そして、女子教育者として過ごしておられますが、この先駆的な男女同権の思想と、のちの知的障害児者施設の運営とどうつながり、さらにどのような人々との交流の中から、それが生まれたから探求されています。
私は常々、学生に、自らの差別を感じることのないものは、他の人々への差別を感じることはできないと言ってきました。私自身の研究も、女性解放を根底にすえ、さまざまな差別への挑戦として、人権としての福祉を位置づけてきました。筆子先生に最も強い影響を与えたと思われるボアソナードの言っている「その国の福祉の状況は、その国の文明の程度を示すものである」という指摘は、全くその通りだと思っています。宮崎監督の作品には、以上のことがしっかり画かれていることを、期待しています。
一方、山田火砂子監督の『筆子・その愛-母として、妻として-』は、自らも知的障害者の親である監督が、自らの母の心情にかさねあわせ、筆子先生の日常生活を、ドラマ風に画いた作品です。「準備稿2」を拝見しますと、滝乃川学園での子どもたちとの生活をはじめ、筆子先生の亮一先生との結婚をめぐってのエピソード。さらに、津田梅子との交流などが画かれています。とくに、学園が火事になったとき、園児を助けるため自ら火の中に跳びこまれた時のこと、園児六名は亡くなり、自らは一生足が不自由になられたことなども、画かれています。山田監督の作品で、私が学生に必ずみせる映画に、賀川豊彦の生涯を描いた『死線を越えて--』があります。その名作を知っているだけに、今から楽しみにしています。
福祉を学ぶものにとって、すぐれた映画はなににもまして教材として活用出来ます。それは福祉文化でもあります。二本の映画の上映が、切に待たれます。
(長崎純心大学大学院教授)
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